みうらじゅんさんの「マイ仏教」を読みました。
みうらさんが仏像に心奪われた幼少期から、マイ仏教を持つようになった過程、そして仏教との向き合い方までを記した本書。
筆致の軽快さ、そして諦観した視点にグッと引き込まれながら、面白くあっという間に読み終えてしまいました。
その中でも私の心を強く捉えて離さない、みうらさんならではの考え方がありましたので、ご紹介します。
比較三原則とは
彼の持論のひとつである「比較三原則」は、無常な人の世を生きる上で、非常に重要ではないかと思います。
▼比較三原則とは
「親、他人、過去の自分」の3者と比較しない生き方
人は誰かと自分を比較せずにはいられません。
他人と比較することで自信を高めたり、反対に失ったり、果ては妬み嫉みに苦しんだりと、思い悩みます。
これはヒトだけの問題ではなく、群れを形成して生活する動物もまた、他者と比較することで個の能力差による上下関係を築いています。
群れの安全を守るには、能力に応じた役割分担は必須。
能力の基準に及ばない個体は、群れの中で厳しい扱いをされてしまいます。
なんと厳しい自然の摂理…
比較することは、生き物である人の性(さが)。人は比較せずにはいられないのです。
しかし、それが原因で「苦しい」のなら、比較なんかしなけりゃいいじゃない。
比較するから苦しいのだ、ということに気付くことで、楽になれることもある。
というのが、みうらじゅんさんの持論「比較三原則」なのです。
親、他人、過去の自分
親
一番身近に接してきた人間であり、「大人」の模範であり、アイデンティティに深く関わる「親」という他者。
世の中にはいろんな親がいますが、もし尊敬できる親なら、「自分は尊敬する父母のような大人になれるだろうか?なっているだろうか?」と自問する瞬間があるのではないでしょうか。
子供をもったら、「父母は自分にいろいろしてくれたのに、自分はできていない」と親と比較して自責の念に駆られたり。逆に、反面教師にすることもありますが。
他人
隣の芝は青く、隣の花は赤い。
他人のものは自分のものより良く見えます。
他人の持ち物、家、趣味、家族、交友関係、学歴、職業、性格、能力。
出自も今いる環境も、自分と「違う」ことは当たり前なのに、それを比べて自分を卑下して、結果得る物って何でしょう。
残念ですが、何も無いのです…
自分より良いものを持っているように見える他人の心の内なんて、実際のところわかりません。
すごく恵まれているように見えても、見えないところで苦悩しているかもしれません。
みんな、それを隠して生きているのです。
過去の自分
これもまた、きつ~い相手です。
過去の自分、それも「今は失った『過去に手にしていた物』を持っている自分」。
『過去に手にしていた物』が今はもう無い、ということはとても耐えがたい苦痛です。
一度手にした栄光を失った現在の自分が、哀れで情けなく見えてしまう。
過去への執着と後悔の波が押し寄せて、さらに今の自分を追い込んでいきます。
「そこがいいんじゃない!」の精神
「親、他人、過去の自分」の3者と比べ、
「自分は劣っている」というのが、比較の苦しさの原因です。
うーん、つらいぜ。
「じゃあ比較しなきゃいいんだ!」と思うものの、
ヒトという生き物の性ですから、なかなか自制するのは難しい…
そこで、みうらさんはこんな方法を取っています。
後ろ向きな考えが頭をよぎった時、
瞬時に、「そこがいいんじゃない!」と肯定してあげる。
親と比べて食卓に並べる料理数が少ない…でもそこがいいんじゃない!
インスタのようなきれいな部屋づくりができない…でもそこがいいんじゃない!
過去の自分のようにバリバリ働けていない…でもそこがいいんじゃない!
「え、本当に?本当にそこがいいのか?」と疑問に思う隙もはさまず、
「そ こ が い い ん じゃ な い!」と全肯定する。
自己肯定感の低いネガティブ人間な私にはかなり高度なテクニックだと思いますが、
無理やりにでも「そこがいいんじゃない!」を押し通すと、
「案外、そこがいいのかもな」と謎の自信が、ふつふつと湧いてきます。
「比較三原則」、そして「そこがいいんじゃない!」という生き方。
投げやりでも無理やりでも、いいじゃない。
人と比べるの苦しいな、と感じている方には結構有効な方法ではないでしょうか。